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遠江屋本舗について

 遠江屋は、明治中期、雲仙で最初にできた旅館である湯元ホテルの娘、加藤シルが木賃宿として創業しました。明治、大正、昭和と外国人避暑地としてにぎわった雲仙温泉街。遠江屋も木賃宿から食堂へと変わり、戦後を迎えます。

 創業から三代目となる加藤貞彦は戦前、台湾に渡り商売を学び、戦後、家業の食堂を手伝うかたわら、妻キサエと店の一角で小さな商売を始めました。客席の机に風呂敷を広げ、仕入れた箸や湯のみなどを並べて売っていたといいます。また、若い二人は普賢岳に登り、風穴で冷やしていたサイダーを登山客に販売していました。

 遠江屋を合資会社化し、土産品店として本格始動した昭和27年。時代はNHKラジオドラマ「君の名は」が大流行していました。雲仙はロケ地の一つに選ばれ、雲仙の観光ブームは最盛期を迎えます。半径1キロの小さな温泉街には、ゲタの音がカランコロンと鳴り響き、うるさくて眠れなかったというほど、人の往来があったといいます。貞彦が湯せんぺい製造に乗り出しのはそんな時代でした。

明治時代の遠江屋
現代の遠江屋

 四代目の加藤一隆は幼少期、そんなにぎやかな温泉街で育ち、家業を継ぎました。幼少期の雲仙温泉街にはパチンコ屋、ビリヤード場、ダンスホールがあり、街のあちこちから歌謡曲が流れ、にぎわっていたといいます。遠江屋は土産品部に加え、乳業部(卸部門)、軽運送部と事業を拡大。平成2年には長崎旅博覧会が催され、大勢の観光客が押し寄せました。好景気にわく雲仙温泉街でしたが、同年、雲仙普賢岳の噴火が始まります。温泉街は直接的な被害は免れたものの、甚大なる風評被害に悩まされ、深刻な不況に陥りました。「商売とは扇。要となる軸を大事にすれば、時代に合わせて広げたり閉じたりできる」という設立者貞彦の言葉のもと、一隆は再度湯せんぺい製造と土産品販売に主軸を置き、商売と温泉街の復興に取り組みました。

 それから25年。五代目となる加藤隆太が帰郷したのは、普賢岳噴火の風評被害により、閑散とした温泉街でした。雲仙の本来の魅力とは何か、あるべき観光のかたちとは何か、みやげ品の役割とは何か。観光地での商いの原点に立ち返りながら、祖父、父が歩んだ雲仙の盛衰の教訓を受け継ぎ、今、湯せんぺいを主軸にした新しい菓子の製造に取り組んでいます。

 代々、大事にしてきたのは、加藤家の祖先であり、江戸時代、共同浴場を切り開き、温泉街の整備と資源管理に尽力した湯守の加藤善左衛門の精神。普賢岳の恵みである温泉に感謝し、自然を守り、街をはぐくむ。木賃宿としての創業から、130余年。遠江屋はこれからも商いを通じ、地域に貢献し続けることをモットーに、邁進してまいります。

古き良きUNZEN・・

 明治時代、上海で発行されていた英字新聞「ノースチャイナデイリーニュース」で、雲仙温泉が近くて上質な避暑地として紹介されて以来、温泉街にはたくさんの外国人が訪れるようになりました。大正から昭和初期にかけては、長崎~上海を結ぶ上海航路の就航もあり、蒸し暑い夏の間、上海から雲仙を目指すたくさんのお客様がこられました。最盛期では年間3万人もの外国人避暑客を受け入れ、街は外国人であふれかえっていました。

 一度の滞在で平均2~3週間過ごしたという外国人避暑客。当時の温泉街では、昼はゴルフやテニス、乗馬などを楽しみ、普賢岳を中心とした山々ではトレッキングやハイキングをしていたそうです。山に飽きたら、麓の海へ数日キャンプに出掛け、疲れた体を雲仙の涼しさと温泉で癒していたとか。夜になれば、豪華な晩餐会。ダンスホールでは歌や管楽器の演奏に合わせて社交ダンスを楽しむ。湯宿の宴会場では、三味線や芸者さんの歌や踊り。しっとりとバーでお酒やビリヤードなど。まさに和洋折衷にぎやかでハイカラな夏の夜を過ごしました。

 雲仙温泉街の建物には今も当時の名残があちこちに見られ、ハイカラモダンな時代を反映しています。

雲仙の魅力

 雲仙は日本最古の国立公園。昔から自然が大切に守られてきており、高原植物や野鳥といった生態系は自然の大図鑑のようです。

 春は雲仙ツツジが山肌をピンクに染め、みずみずしい若葉が初夏の青葉に変わるとさわやかな夏の訪れです。 山中が赤やオレンジ色にそまる紅葉の秋が訪れ、冬を迎えると木々は霧氷でクリスタルに変身します。

 雲仙の自然の恵みといえば温泉。雲仙岳を有する長崎県島原半島には、三種類の温泉が湧き出ます。雲仙温泉では、美肌効果の高い硫黄泉。小浜温泉では、保湿保温に優れた食塩泉。小浜・島原温泉では、疲労回復に効果的な炭酸泉。周囲100キロの小さな半島に沢山の源泉を有します。ぜひ湯めぐりもおたのしみください。

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